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純粋な客観とは?客観は存在するのか【音楽家の視点から】

純粋な客観とは?客観は存在するのか【音楽家の視点から】

Willkommen!! どうも、Torayoshi(@moritora810)です。今日は客観性というのが存在しないのかどうかのお話です。

ただ、今回は演奏の質を考えていくことからスタートして、世界が平和になる方法まで行き着きたいと思います。(どういうこっちゃ音楽に限らず、質が良いとか悪いというのはどうやって決まるのでしょうか。

物事を考える2つの視点

今回は音楽の質について考えることからスタートします。それを考えるには、まず2つの視点が必要です。

  1. 「主観」(その人の価値観)
  2. 「客観」(社会的に価値があるものかどうか)

主観的側面から演奏の質というものについて考えてみると、これは演奏者も聴衆もどちらからでもですが、その人が良いと思えば良いし、悪いと思えば悪いということになります。

次にもうひとつの、客観社会的に評価されているかどうかでもある程度演奏の価値をはかることができます。

たとえば社会で権威のある賞を取ったり、大きな仕事をしたりと、そういったことです。ただ、社会的に認められたからといって、質が高いかどうかは保証されていない、という側面もあります。

客観性には相対性が絡んでくる

たとえば、ここに質量が同じ2つのお弁当があったとします。500円のお弁当はよくスーパーやホット〇ットなんかで買える市販のものです。 それに対して10,000円のお弁当もあります。有名なシェフが作っていて、栄養バランスも良く食材もフレッシュ高級食材も入っています。

質が良いのは10,000円のお弁当なのは明かですが、需要があるのは明らかに500円のお弁当です。それにもしかすると、500円のお弁当の方が、値段の割には質が良いと言うことができるかもしません。

ここでお分かりの通り、客観的(社会的)な視点で何かを評価しようとするときには、相対的な視点が絡んでくるということです。

「絶対は絶対ない」という言葉遊びがありますが、インド哲学でもこれに似た面白い言葉があります。それは、「物事は絶対に相対的である」という言葉です。

これは簡単に説明すると、「リンゴはチェリーに比べたら大きいけど、スイカと比べたら小さいよね。」という話です。相対的な観念を抜きにして、客観的であるということを述べることはできません。この前提条件を理解しているかどうかは非常に大きなポイントだと思います。

比べる対象を限定しなければ測定不能

更に続けると、相対的な視点を取り入れて客観的に何かを評価しようとするには、

  • 比較対象
  • 比較する側面

の2つを限定するという必要があります。物事は全く異質なもの、遠くかけ離れたものを比べても意味がありません。同じ「りんご」というカテゴリーの中で比較対象を限定した上で、さらに側面を限定して「糖度」なら「こちらの方が甘い」とか、「大きさ」なら「こちらの方が大きい」と言うことができます。このように、何か(A)を評価するということは、なにか(B)と比べるということであり、尚且つ、その対象を限定して、側面を限定して、はじめて有効になりうると考えられます。

前提条件が同じで無ければそもそも比較は困難

比較する側面を限定する理由は、そもそも全ての物事の前提条件が同じではないからです。何かを比較するということは、分母(条件)をある程度そろえる必要があります。数学的に解釈すると、3分の1と4分の1を比較したいなら、母数を12にするのと同じです。

しかし、物事では同じ条件というのは存在しません。必ず違いがありますそのため、先ほどの例の「りんご」のように分野を限定して比較する必要性が出てくるのです。そうでないもの、特に性質が全く異なるものは、まずもって容易には比べられません。

さて、ここで更に考えなければならないのが、その人が何に重き(価値)を置いているかという部分と、その人が今まで経験してきた比較対象です。ここで音楽の話に戻ると、たとえ誰かがどんなに「私は客観的に評価して、あの人は歌が上手いと思います。」と言ったところで、その後ろ側には、「私は客観的に評価して、あの人は【〇〇さんと比べて(その人が今まで聴いてきた中で)、こういう部分がこうなので】歌が上手いと思います。」という主観的観測(どの部分を比較するかの価値観)と比較対象(相対性)の2つが存在しているわけです。

どの部分を比較するかという部分が、ここでいう主観的な価値観、その人が何に重きを置いているかという部分になるでしょう。例えば、ビジュアルに重きを置く人もいれば、音色の人もいるでしょうし、言葉の明瞭具合やディクションにもよるでしょう。これはつまり、その人の価値観が比較する側面を限定しています。

そして次に、なぜ相対的な観点が入り込むかと言えば、ものごとは比較対象がない場合、絶対的になってしまうからです。初めてピアノの演奏を聴いた人はそれが上手いか下手なのかわかるはずもありません。

初めて食べた寿司が不味ければ寿司はずっと不味いものです。次に美味しいお寿司を食べない限りは!

純粋な客観なんて存在してない

このように、客観的な視点というものは、これまで経験してきたものをサンプルにした「比較対象」と、自分の価値観が付随した、「比較する側面」が必要であり、それを取捨選択して決めるのは必ず私(主観)です。

つまり以上の話から考えられることは、客観的に考えているように見えても、それって比較する側面を私(主観)が決めているわけだし、比較するときのサンプルの収集量にも限りがある(もしくは偏りがある)んだから、結局、純粋な客観なんて存在しないのではという話です。

それは結局、この文章も個人的な意見でしかないということでもあります。そしてそれと同時に、今あなたが思考していることも主観的であるということです。しかし、この「すべてにバイアスがかかっている」ということをみんなが理解すれば、人の意見を叩いたり、潰そうとしたりする人が減るんじゃないんだろうかと思いました。というより、長くなりましたがこれが今日言いたいことです。

客観と言う暴力で人を否定してはいけない

私は今まで、自己主張する人を叩く人たちを見てきましたし、実際にそういうことを自分の身でも経験しました。つまり、「出る杭は打たれる」です。そしてそういう人たちが暴力的に使っているのが、客観です。

「それは一般的にみておかしい」、「常識的にいってありえない」、「普通じゃない」、「みんな大変なんだから」のような、あたかも客観的に言ってるから、自分の意見は正しいという主張をする人たち。

しかし、既に私は客観的な意見は存在しないことを述べているので、私は今回声を大にしてこう言いたいと思います。

それは主観であり、比較対象のバイアスもあるため、客観的とは言えません。

まとめ

  • 客観的観測を行うには、分野側面を限定しないと難しい
  • それらを何にするか決めるのはその人の価値観によるので、どうしても観測者の主観比較対象が入り込む
  • 比較対象には個人のバイアス(偏り)があるため、純粋な客観というのは存在し得ない(※と私は主観的に思います。)

私は、人が他人の意見を尊重したり、相互理解をしようとするのは、人間の最も素晴らしい部分だと思います。そして、みんなもっと怖がらずに自分の意見を言うことができれば、世界はもっと住みよくなるんじゃないでしょうか?

自分と意見が違うからといって、観という名の矛で人を攻撃したり、その盾で同調させようとするのは暴力です。そしてそれは主観ですから!

私たちは、もし共感することができなくても、理解しあえるだけの知性とユーモアを持っています。むしろ、みんな違う考え方や主観を持っているからこそ面白いということが沢山あると思います。

そんな人間の素敵な部分を信じつつ、人と意見が違っても堂々と発信できる場所がもっと世界に増えるいいなと願っています。これも私の主観的な意見ですけど!

それではまた次回!Bis Bald~!

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