「普通」という幻想から生まれる思考。人に不良品などあるのか?【優勢思想について】

2019年6月11日

「普通」という幻想から生まれる思考。人に不良品などあるのか?【優勢思想について】

Guten Tag!! とらよし(@moritora810)です。今日はYahooニュースのトップページを見てたら気になった文章を読んでしまったので個人的な見解から少しそのことについて語りたいと思います。

気になったのはこれです。

2日放送のフジテレビ系「ワイドナショー」(日曜・前10時)で、松本は川崎市の登戸駅近くで発生した無差別襲撃事件の容疑者(51)に関して、「不良品」という言葉を使用。「人間が生まれてくるなかで、どうしても不良品って何万個に1個(生まれる)。これはしょうがないと思うんですよね」とし、さらに「もうその人たち(=不良品)同士でやりあってほしいですけどね」とまで踏み込んだ。

 この発言には放送直後からネット中心に批判が殺到。「人間を生まれついての不良品と見なす人間観。そうした見方が歴史上どれだけの不幸を起こしてきたかを少しでも知っていれば、口に出せるものではない」「確かに犯人がやったことは最悪だが、人間には生まれながらの絶対的な『不良品』なんていない」という意見から「松本さんの言葉は、まともではない人は排除すべきという優生思想そのものでは?」という声まで出た。

今回はこの発言をしたからどうとかそういうことではなくて、この発言の裏にある思考回路についての話です

発言の、「人間生まれてくる中で、どうしても不良品が生まれる」という部分は優勢思想だと認識できます。少なくともドイツであればそう捉えます。

それはたとえば「五体満足」あるいは「健康に生まれてくる」のが、「正常」「普通」で、「障害をもって生まれてくる(身体でも知能でも)」ことが、「不良品」とか「欠陥がある」という状態であるという考え方です。

今日はこの考え方の問題点を深堀りしたいと思います。

優勢思想とは何か?

優勢思想というのは、もともとは以下のような内容をさします。

優勢思想とは、身体的・精神的に秀でた能力を有する者の遺伝子を保護し、逆にこれらの能力に劣っている者の遺伝子を排除して、優秀な人類を後世に遺そうという思想。優生学の成果に立脚する。人種差別や障害者差別を理論的に正当化することになったといわれる。

ウィクショナリー日本語版より

私は以前アウシュビッツへ行ったことがあります。そこにあるものは、まさにこの優勢思想を鋭くした人類最悪のケースでした。

優勢思想が間違っているということは歴史を見れば明らかです。

ドイツ民族の方がユダヤ人より優れている。だから殺しても良い。日本人は韓国人より優れている。だから侵略しても良い。

ナチスは障碍者(身体的・知的な障害をもつ人たち)も殺すべきだと主張しました。優勢思想において、障碍者は健常者より劣っているからです。そしてそれは実際に行われました。

日本でも近代まで障碍者は隔離され、隠され、そこで人生を終えるということが現実として起こっていました。旧「優生保護法」1948〜1996年まで存在し、強制的な不妊手術が約1万6500件実施されたとされています。

つまりこれはつい最近まで国までもが認めていたということです。

何が優勢かは分からないと歴史が証明している

みなさんは人間の祖先の話をご存知でしょうか?

我々の祖先は、ホモサピエンスだと言われています。しかし、ホモサピエンスが優れていたから生き残ったのかと言うとそうではないのです。

ホモサピエンスが生きていた時代には、同じ人類でネアンデルタール人がいました。ネアンデルタール人はホモサピエンスよりも体が大きく筋肉もあり、狩りをして生活していました。

狩りが出来たので、大型のマンモスや動物を捕食できたとされています。それに対してホモサピエンスは身体が小さくて弱かったので、小動物・うさぎやネズミなんかを捕って食べていました。

もちろん、マンモスや牛、馬といった動物の方が栄養価が高かったわけです。ネアンデルタール人は食料の獲得と言う軸では価値が高いものを得ていました。

そしてその時代「栄養価が高い食料を獲得すること」は優れたことでした。

しかしその後、気候変動によって大型の動物の数が激減していきます。それにともなってネアンデルタール人は狩りで獲物を捕るのが困難になります。そしてその結果、彼らは滅びました。

それに対して、ホモサピエンスは小動物や昆虫なんかを食べる術を持っていましたから、そんな環境の変化にも対応ができて生き延びたと言われています。(※もうひとつの理由として集団性もありますが話すと長いのではしょります。気になる方はこちらをご覧ください。)

つまり、ホモサピエンスは弱かったから生き延びたと言えます。これはとても面白い例です。

この進化の歴史を見ると分かる通り、「何が優勢か」を一概に決めることはできないということです。

更に多角的な観念から観察すれば、たとえば東京やNYといった近代都市で必要な人間の能力と、アマゾンやアジアの奥深く、密林で暮らす人間に求められる能力は全く異なります。

しかしそれを絶対値としてどちらが優れていると考えることはできません。もし私の方が優れていて、相手が劣っていると考えるのであれば、それはある評価軸だけで物事を取らえている場合のみです。

「普通」があると思っているから生まれる思考

この「他者が劣っている」という考えは、「自分が優れている」という考え方と表裏一体です。また逆に、「自分が劣っている」「他者が優れている」という考えにも行きつくものです。

自分と他者を何かの評価軸に載せて推し量ろうとします。

この思想のもうひとつのポイントはその評価の中でおのずと平均値を算出してまうことです。

それはその人の「普通」になり、それより自分が上であること、あるいは他者が下であること、そういったことを無意識に判断しています。

この種の思考というものは、結局今回の犯人が持っていたものと同じ種類のものだと私は思います。

「自分の価値が感じられない」「自分が劣っていると考えてしまう」

犯人亡き今、犯行理由がなんだったのかは分かりませんが、私の想像ではこの考え方も今回の事件を引き起こした思考回路のひとつであろうと思います。

おそらく私たちは、社会に蔓延るこの考え方を変えなければならないということです。

言いたいことまとめ

  • 優勢思想は排他主義的な思想であるということ。
  • 何が優勢かということは社会や環境、時間によって変化するということ。
  • 我々は多様な価値観を認め合うべきだということ。
  • 具体的には、沢山の評価軸広い視野時間的な距離を持った視点(年齢を含む)を持つべきということ。
  • そもそも他者と自分を比べる必要がないということ。
  • 普通を作り出した瞬間に差別が生まれるということ。

ちょっと上手くまとめきれませんでしたが、少しでも私の思想が誰かに新しいアイディアを与えるといいなと思っています。最後に、川崎の事件で亡くなられた方とそのご遺族の方に哀悼の意を捧げます。

それではまた!

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